どぜう、この小さな淡水魚は、江戸の庶民の蛋白源だった。安く、 甘く、浅い鍋でごぼうと山盛りのねぎとともに煮込まれる。かつて 浅草にはどぜう専門店が数十軒あった。今も残るのはわずか数軒。 なかでも飯田屋は、慶応年間の米屋を源流とし1902年に創業した、 通(つう)の選ぶ一軒である。文豪・永井荷風が席を持ち続けた店で あり、今なお番頭が履物を受け取る店であり(「主人の仕事は割下と 玄関」という店の掟がある)、そして甘辛い秘伝の割下が、一族の 定めにより一代につきただ一人にしか伝えられない店である。
味わうもの
丸のままのどぜう、あるいは骨を抜いたものを、その秘伝の割下で 卓上に煮込み、店の者が必ず勧めるとおり、ひと箱まるごとのねぎに 埋め尽くして、17世紀からこれを挽き続ける薬研堀の山椒をふりかけ ていただく。より優しい入口となるのが柳川。骨を抜いたどぜうと ごぼうを卵でとじた一品だ。うなぎ、冬にはなまず、そして女将 仕込みの秘伝のぬたが、五十年ひとつの流行も追わずにきた品書きを 彩る。
暖簾からの一言
一晩たっぷり楽しんでおよそ¥5,000。これは、チェーン居酒屋ほどの 値段で味わう、生きた江戸の食文化である。180席、英語メニュー、 そして外国からの客への飾らないもてなし。すぐ隣、包丁を探す かっぱ橋の路地を歩いたあとに立ち寄り、座敷に腰を下ろして、 この街の職人たちが三世紀にわたって食べてきたものを味わいたい。
こんな方に
寿司より一皿だけ深く踏み込む覚悟のある好奇心旺盛な食い手に。 かっぱ橋を巡礼する人に。そして、もっとも慎ましい名物こそ もっとも古い秘密を守り続けていると信じるすべての人に。



